PROFILE自分の想いの赴くままに
目の前の事を全力で楽しんでたら
こんな変態になりました
山根 透YAMANE TORU
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MANAGEMENT CONSULTANT経営コンサルタント
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MANAGEMENT STAFF経営参謀
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BUSINESSMAN実業家
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名前山根透(やまねとおる)
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生年月日1979年4月27日
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家族構成妻・長男・次男
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出身地鳥取県岩美郡岩美町
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小学校網代小学校(ど田舎の小学校クラスメイトは28名のみ)
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中学校岩美中学校(クラス数6クラス)
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高等学校鳥取県立鳥取東高(進学校です)
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大学大阪芸術大学映像学科卒(映画を撮っていました)
WORK HISTORY
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22歳から24歳鳥取市の小さな広告代理店にて営業兼ディレクター
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24歳から26歳鳥取市の注文住宅会社でマーケティング責任者
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26歳から28歳親会社の取締役就任と共に子会社の取締役に就任し設計事務所、広告代理業、WEB制作業、飲食業などの統括
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28歳から33歳鳥取市(株)旺方トレーディング常務取締役
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32歳~経営コンサルタントとして独立 OFFICE IMAGINATIVEを設立
HOBBY
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特技水泳(小学校のとき鳥取県1位でした)
バレーボール(中学高校共鳥取県の選抜チームのセッターで国体出場もあります) -
趣味仕事・筋トレ・スパイスカレー・鮨
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最近の悩み痛風になってしまった
TORU’S HISTORY
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幼少期
CHILDHOODど田舎の神童
大人を論破する漁師の次男として生まれる。
兄弟は3つ上の兄と二人兄弟
父は漁に出ると4日ほど家には帰ってこない環境であったが元気よく育つ。
小学校の頃の成績はオール5。
なんでも器用にこなすやつで
とても大人びた少年だったと思う。
大人とも対等に話をして
大人を負かすこともあった。
スポーツも万能で、小学校5年生と6年生の時、水泳で鳥取県一位になるが、
代々引き継がれた水泳一家の中で
勝手に自分でプレッシャーを
感じていたので
水泳は得意では
あったが好きではなかった。
個人競技のプレッシャーから逃げ出す形で中学校からは
バレーボールを選択した。 -
中学生の時
JUNIOR HIGH SCHOOL不良の番長と
県選抜のスポーツマンと
生徒会長を兼任当時、鳥取県の中で男子の髪形が校則で
丸坊主だったのは自分の学校と
もう一校だけ、色気付いていた
山根少年はモテたい一心で
この校則を生徒会長になって改革。
自分たちが卒業するまでには
実現しなかったが
卒業直後の4月に校則が変わり長髪も
OKになった。
未だに同じ中学校の後輩からは
レジェンド扱いである。
やっぱり勉強もスポーツも芸術も悪いこともかなりできた方であった。 -
高校の時
HIGH SCHOOL井の中の蛙太海を知らず
しかし
井の中では無双状態バレーボールばっかりやっていたのと
女性のお尻ばかり追いかけていたので
かなり目立った方だが
学校が進学校だったので成績は
どんどん下がる。
バレーボールはセッターで高校2年と3年で選抜チームのセッターとして
国体に出場。
高校時代は監督が素人だったため戦略から練習メニューの設計、
選手育成など全ての権限が自分にあり
ポジションもセッターだったので
ゲーム中の
コントロールも自分の
役割だった。
監督不在でも対戦相手の強豪校を
徹底的にデータ分析し
当時まだITバレーという言葉すらなかったが強豪校にも普通に勝利していた。
ここでの経験が今の自分を象徴している。 -
大学を志望した理由
UNIVERSITYデザインも関心が高く
ストーリーテリング能力
が
高いのは、無駄に過ごした
大学のおかげ大阪芸術大学という大学に進学した理由は、
11月までバレーボールばかりしていたので、受験勉強をしているわけもなく
偏差値が激減していたので、その状況で入れてかつ
・かっこいい大学
・落ちても言い訳がつく倍率の学校
という基準で検索したら、
大阪芸術大学が候補に上がった。
試験科目も、脚本を書いたりもする
変なやつだったので
ハッタリで受かるとも思い
受験したら本当にうっかり受かった。
しかし入学したらあまりのマニアックな
雰囲気に嫌気がさして
学校はギリギリ単位を取りに行きながら、
夜な夜なクラブで遊んでいた。
お好み焼き屋でバイトしていて、
バイトリーダー兼
同列店舗の惣菜屋さんのおばちゃん連中の派閥争いの調整役を務める。 -
地元の鳥取に戻って就職
HARD WORKINGとりあえず
寝ないことを決めた広告代理店という響きに憧れて、
ハッタリをかまして入社したのが
地元鳥取の老舗の広告代理店。
社員数8名くらいの超弱小企業。
社長、専務が60歳オーバーで中間社員がおらず
新卒採用した社員がちらほらいるくらいの会社。
入社直後ライバル会社の5つ上の先輩に
「お前の入った会社はダサくてダメだね」と言われたことで
心に火がつき、
「絶対この業界で1位を取ってやる」と
決意した。
経験と知識を補うには圧倒的な
労働時間と企画力しかないと信じ込み
2年間朝から朝までがむしゃらに働き、
営業成績では地域ナンバーワンになる。
そんな時、付き合っていた彼女が
「できちゃったの」と。
24歳、手取り21万、ボーナスなし、
休み一切なしの私にはかなりの衝撃でしたが、
まあなんとかするからということで結婚。
長男を授かる。(今年長男、高校2年生) -
結婚を機に住宅会社に転職
CHANGE JOB当時画期的な
マーケティング手法を
編み出した結婚を決めたことを機に、今の年収では
食べていけないので悩んでいた
私に2つの転機が訪れる。
1つ目はクライアントだった注文住宅を
会社の社長に声をかけられて
転職をしたこと。
2つ目はそのとき読んだ
マーケティングの本に衝撃を受けて
マーケティングにどハマりした事。
私が入社した時は3億円くらいの売上の
会社だったが、
自由にマーケティングをやらせていただいた結果2年で売上16億円に成長。
しかし無計画に事業を拡大しすぎたので、
私が退職して2年後倒産。注文住宅の会社の成長と衰退を経験して感じたこと
- マーケティングは最強の武器だが、
誰がいつどのように使うかによっては諸刃の剣になる可能性もある - 市場をコントロールしてブームを作るのはできるが、ブームが去った時の悲劇も想定する
- お金の稼ぎ方には型があり、そんなに難しいことではないが継続的に儲け続けるのは大変
- 人生でも事業でも光があれば影がある
- コインには裏表がある
- 社長の器を超えた規模は崩壊を招く
- 事業も人生もバランスが大切
- リーダーは有事の時に真価を問われる
- 欲のエネルギーはプラス面とマイナス面が存在する
- 財務を理解しない社長は会社を潰す
- 「我唯足知」の大事さ
- マーケティングは最強の武器だが、
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中古農業機械の流通事業を経営して
INDEPENDENCE3億円の個人保証に
ハンコを押して
腹をくくった28歳の時、仲の良い鳥取の同級生が
やっていた中古農機具の買取・販売の
会社に私が取締役を務めていた広告・WEB制作会社の事業を譲渡し
取締役で経営に参画。
年商1億5000万円の「ゴミ屋」と
揶揄されていた
会社を4年半で海外輸出84か国、
国内卸売先700社、年商10億、
鳥取で新卒採用で人気企業トップ5、
鳥取県の経営革新計画グランプリ企業へ
と成長させる。
企業成長における全ての業務に携わり、
前回の教訓を生かしてバランスを
重視しながらも成長させていく。
NO.2の立場としてゼネラリスト的に以下業務を企画・遂行。
全てを計画立てて行っていたので
そのノウハウが現在の経営コンサルティングの元になっている。- ビジネスモデルとマーケティングの再構築と遂行
- 財務責任者として財務戦略と資金調達
- 人事責任者として採用、教育、評価の仕組み作りと遂行
- システム開発責任者として販売の効率化と社内効率化の遂行
- 総務責任者として様々な業務
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独立して経営コンサルタント
として活動